ですから、魂の内部にあると私たちが言った多くの井戸が存在します。他にも多くの井戸があって、それらは、諸々の()文書の個々の朗読と理解の内に認められます。しかし、目他の諸々の井戸より傑出し、並外れた井戸が存在します。それについて()文書は、下の箇所で次のように述べています:それを掘ったのは普通の任意の人間たちではなく、「司たち」であり、さらに、(聖文書が)「王たち」と呼ぶ人間たちの中でも高貴な人たちであると[1]。それで、その同じ「井戸の傍らで」神に対して讃歌も歌われました[2]。また、それゆえに、「あなたは、井戸の方へ行きなさい[3]」とも書かれています。これは、主がモーセに言った井戸です:「あなたは、民を集めなさい。そうすれば私は、彼らに、井戸から水を与えよう[4]」と。モーセは民を集めるように命じられました――民が井戸に集って水を飲むために。ところで私たちは、モーセは律法として理解されるべきであるとしばしば示しました。ですから神の律法が、あなたが井戸に来るように招いています。どのような井戸でしょうか。それは、私たちが先ほど述べたイエス・キリスト神の子――彼は固有の自存する実体であり、父と聖霊とともに神性の源泉と命名されます――に他なりません。ですから、その井戸に、すなわち、キリストの信仰に、律法は私たちを招いています。実際、彼みずからが、「モーセは、私に関して書いた[5]」と言っています。彼は、何のために私たちを招いているのでしょうか。それは、私たちが諸々の水を飲み、彼に向かって讃歌を歌い、すなわち、「心で信じて義とされ、口で告白して救われる[6]」ためです。



[1] Cf.Nb.21,18.

[2] Cf.Nb.21,17.

[3] Cf.Nb.21,16.

[4] Nb.21,16.

[5] Jn.5,46.

[6] Rm.10,10.

 

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