(聖文書は)「あなた方は手始めとして、彼を井戸に手引きしなさい[1]」と言っています。その意味はこうです:あなた方は、諸々のすべての事柄の始めとして、井戸を起きなさいと――それは、使徒も言っているとおりです。すなわち:実に彼は、「一切の被造物の始めであり長子である。彼において、すべてのものは造られた[2]」とあります。ですから「あなた方は手始めとして、彼を井戸に手引きしなさい」、すなわち、あなた方は、すべての事柄の始めが井戸であることを告白しなさい。しかし、それは次のようにも理解されます。すなわち(それらの)言葉は、モーセという人物を通して、勧めとして民に向けられたもので、彼は次のように言っているように見えます:あなた方は、あなた方の心に次のことを始めるようにさせなさい――諸々の霊的な水が汲み上げられるべき井戸、信じる人たちの民が元気を取り戻すべき井戸が何であるかを理解することから始めること。したがって「あなた方は手始めとして、彼を、すなわちイスラエルをこの井戸に手引きしなさい」。それは、心において神を見る人がいるなら[3]、その人が、諸々の深淵から神秘的な意味を汲み上げることができるようになるためです。

 ところでその井戸に、モーセが、すなわち律法が私たちを集めると言われているのは、無駄でないように思われます。なぜなら或る人は、(モーセなしで)その井戸に来るように見えるかかもしれません。しかし、モーセなしに集められたなら、その人は神に受け入れられていません。マルキオンは、その井戸に来たと自分で思っています。バシリデスもバレンティノスもそうです。しかし、彼らは、モーセを通して来たわけではなく、律法と預言者たちを受け入れたわけでもありませんから、イスラエルの諸々の泉について、主なる神を賛美することができません。ですから、そのような人たちは、「司たちが掘り、王たちが打ち固めた」井戸には来ません。



[1] Cf.Nb.21,17.

[2] Col.1,15-16.

[3] 「神を見る」は、「イスラエル」という語に関するお決まりの語源的解釈である。もちろんオリゲネスに独自のものではない。

 

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