29 しかし、歴史についてもう多くのことが語られましたので、最後に、ある比喩(的解釈)についても私たちは言及しておきましょう。もしもあなたが、敵対する権能が神の民を攻撃するのも見るなら、ロバの上に座っている者が誰であるかをあなたは理解するでしょう。そして、人々がどのようにして悪霊たちによって投げ倒されるかをあなたが考えるなら、あなたはロバが何ものかを理解するでしょう。実に福音においても、あなたはこのように、イエスがご自分の弟子たちを「繋がれているロバとその子(ロバ)の許に遣わし、弟子たちがそのロバを解き、ご自分が乗るために連れてこさせた[1]」と理解するでしょう。そしておそらくこのロバ、すなわち教会は、以前はバラムを乗せていましたが、今はキリストを乗せています。なぜなら神の子がそれに座り、それとともに、聖なる「都、天のエルサレム[2]」に入るために、それは弟子たちによって解かれ、繋がれていた諸々の束縛から解放されたからです。こうして()文書が成就されます。それは、こう言っています:「喜びなさい、シオンの娘よ。歓呼の声を上げよ、エルサレムの娘よ。見よ、あなたの王があなたの許に来る――高ぶることなく、駄馬に座って[3]」。駄馬すなわちロバは、疑いもなく、ユダヤ人たちの中から信じるに至った人たちであり、「若い子ろば」は、明らかに、「異邦人たちの中からキリスト・イエス、私たちの主を信じるに至った[4]」人たちであると(聖文書は)言っています。「彼に、栄光と力が代々にありますように。アーメン[5]」。



[1] Cf.Mt.21,2s.

[2] Cf.He.12,22.

[3] Za.9,9.

[4] Cf.Ac.21,25.

[5] 1P.4,11.

 

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