10 以上のすべての事柄から、神が善き業のために諸々の善を使うばかりでなく、諸々の悪を使うことが結論されます。神が善き業のために諸々の悪い器を使うのは、本当に驚くべきことです。実際、この世界という「大きな家の中には、金と銀の諸々の器があるだけではなく、木や粘土の諸々の器もあります。そのあるものは名誉のために、他のものは恥辱のために使われます[1]」。そして両者は、ともに必要です。しかし、私たちが語っているそれらの器は理性的なものであり、自由意志を備えていると理解されねばなりませんから、偶然や気まぐれによって、「名誉の器」や「恥辱の器」が作られるのではありません[2]。みずからを選ばれるに値するものとして示した者が、選ばれた器と名誉の器として作られます。相応しくない諸々の極悪の考えによって生活する者が、「恥辱の器」として形成されます。その恥辱の諸原因は、創造主によってではなく、自分自身によって与えられます。ですから、創造主が彼らをそのようにさせたのではありません。彼は、この種の精神(的存在者)たちを、彼らの意図に従って、みずからの摂理の正しさと言語を絶した或る理由とによって処置します。



[1] 2Tm.2,20.

[2] Cf.Rm.9,20-23.

 

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