私たちとしては差し当たり、神の知恵と或る経綸とによって、この世界の内では、何ものも神の下で無駄なものはないように配置されている――それがたとえ悪であっても、たとえ善であっても――を言っておきます。私たちは、言われていることをもっと明瞭に説明しましょう。神は邪悪を行いませんでした。しかし、神は、他の者たちによって考案された邪悪を妨げることができるにもかかわらず、妨げることをせず、その邪悪を、それを持っている人々と共に、必要な諸々の目的のために使います。すなわち悪意のある人たちを通して、神は、諸々の徳の栄光に身を伸ばす人たちを輝かせ確証します。実際、もしも邪悪が滅ぼされれば、諸々の徳に対立するものも確かに存在しません。何らかの対立物を持たない徳は明らかにならず、より確実でより輝くものになりません。認証されず吟味を受けない徳は、徳ではありません。しかし、それらのことが、神的な諸々の言葉の諸証言なしに言われるなら、真実で疑いようのないものとしてよりも、精緻で人間的な技法によって作文されたものとして見られてしまうでしょう[1]。そこで私たちは、神的な諸々の巻き物もそのような意味を含んでいるかどうか探求してみましょう。



[1] オリゲネスは、修辞学を嫌悪している。

 

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