ヨセフのところに私たちは行ってみましょう。彼の兄弟たちの悪意を取り去ってください。妬みを取り去ってください。あの尊属殺人にも値する企み――弟を売り払ってしまうほど冷酷になったほどの企み――を取り去ってください。もしもあなたがそれらを取り除くなら、あなたは同時に、どれほど多くの神の経綸を滅ぼしてしまうかお考えください。すなわちあなたは、エジプトにおいてヨセフによってすべての人のために為されたすべての事柄[1]を破棄することになるでしょう。ファラオの夢の解釈も存在しなかったでしょう――もしも兄弟たちの妬みによってヨセフが引き抜かれ、エジプトに来なかったとすれば[2]。神が王に啓示したことを理解する人は誰もいなかったでしょう。エジプトにおいて、小麦を蓄える人は誰もいなかったでしょう。飢饉という重大事に、知恵ある先見によって対処する人は誰もいなかったでしょう。エジプトは滅んだでしょう。近隣の諸地域も飢饉で滅んだでしょう。イスラエル自身も滅んだでしょう。パンを求めた彼の子孫もエジプトに入ることはなかったでしょう。また、イスラエルの子らが、主の数々の驚嘆すべき事柄の中で、そこから脱出することはなかったでしょう[3]。エジプトの中に諸々の禍はまったくなかったでしょう。神がモーセとアロンを通して行った数々の力もなかったでしょう[4]。紅海を諸々の乾いた足跡で歩いた人は誰もいなかったでしょう[5]。死すべき命はマナという食物を知らなかったでしょう[6]。従って来た岩から諸々の水の数々の流れが噴き出すこともなかったでしょう[7]。律法が神によって人々に与えられることはなかったでしょう。『出エジプト記』にあること、『レビ記』にあること、『民数記』にあること、『申命記』に述べられていることも、人類の知に至ることはなかったでしょう。先祖の嗣業地と約束の地に誰も入らなかったでしょう。



[1] Cf.Gn.41,25-57.

[2] Cf.Gn.37,28.

[3] Cf.Ex.6,10-15,21.

[4] Cf.Ex.7,8; 1Co.10,1. 訳文中の「数々の力」(virtutes)は、一般に、「数々の奇跡」や「数々の力ある業」と訳される。

[5] 直訳している。「足をぬらさずに歩いた人」ということ。

[6] Cf.Ex.16,13sq; 1Co.10,3.

[7] Cf.Ex.17,7; 1Co.10,4.

 

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