12 「見よ、(この)民は独りで住み、諸国民の中で数えられないだろう[1]」と(聖文書は)言っています。たしかに文字に即して立つことができます。実際、ヤコブの民だけが他の人間たちに混ぜられませんでしたし、他の諸国民の間で数えられませんでした。この民は、その諸々の戒律と諸々の慣行において幾つかの特定の特権を持っており、それらによって他の諸国民から分けられています。レビの部族は他の諸部族の間に混ぜられず、それらの間に数え入れられませんでした。それと同じように、すべてのイスラエルも、他の諸国民に混ぜられず、それらの間で数えられませんでした。実にそれらの事柄は、かの民において、将来の諸々の善き事柄の形象として存在していたでしょう[2]。しかし、真のヤコブと霊的なイスラエルだけが、真実に、諸国民の中に暮らすでしょう。実際、もしも私たちが「シオンの山と生ける神の都、天のエルサレムに近づき[3]」、「神の取り分[4]」である霊的なユダヤに着いたなら、そして、もしも私たちが、諸々の地に置かれつつも、そこに「暮らし[5]」を得ているなら、私たちは本当に、他の諸国民の間で数えられることはありませんし、他の諸国民の諸地域が私たちの諸地域に混ぜられることもありません――たとえソドムが太古(の状態)に回復され[6]、エジプトが自分の状態に戻り、諸々の預言()の中に書き記されている他の何らかのこと(が起こるとしても)。しかしながら、彼らヤコブと霊的なイスラエルたちが、「長子たちの教会[7]」に昇ったあかつきには、誰も(他の諸国民に)等しくされないでしょうし、誰も(他の諸国民に)混ぜられないでしょう――たとえそれらの諸国民が預言の諸々の言葉に従って回復されたとしても。実に、「野生のオリーブの枝が添えられ、肥沃なオリーブの根に接ぎ木され[8]」のでなければ、どのようにしてそれは、ヤコブやイスラエルに結ばれ、結合されるとができるでしょうか。なぜならその根がなければ、誰一人としてヤコブともイスラエルとも呼ばれることはできません。ですから、ヤコブやイスラエルに属する人が、もしも罪を犯したなら、その人はヤコブやイスラエルとは呼ばれることはできません。また、諸国民に属する人が、もしも主の教会に入ったなら、その人はもはや諸国民の間で数えられることはないでしょう。



[1] Nb.23,9.

[2] Cf.He.10,1.

[3] He.12,22.

[4] Cf.Dt.32,9.

[5] Cf.Ph.3,20.

[6] Cf.Ez.16,25.

[7] Cf.He.12,23.

[8] Cf.Rm.11,17.

 

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