14 次に彼は、あたかも自分自身についてであるかのように、或る諸々の事柄を預言しているように見えます。彼は言います:「私の魂は、義人たちの諸々の魂の間で死にたい。私の種は、義人たちの種のようになりたい[1]」。しかし、あのバラムとあのイスラエルという人物に関する限り、そのことは起きませんでしたし、実現し得ませんでした。なぜなら彼は、彼らの間でなく、彼らから離れて死んだからです[2]。既に私たちが申したように、むしろそのことは、彼らを象徴する人たちに当てはまるでしょう。すなわちその人たちは、現在の代では、聖霊の恵みがないため、「空しい民」と見なされています。しかし、代の終わりに、「諸国の民の充満が(救いに)入り[3]」、イスラエルについて言われたあの預言が、霊的なイスラエルにおいて実現されるとき、「彼の魂は、義人たちの諸々の魂とともに死ぬでしょう」。たしかに彼は、キリストの信仰を自分の中に受け入れるでしょう。こうして彼らも次のように言うことになります:「キリストにおいて洗礼を施された私たちは、彼の死の内に洗礼を施されました。なぜなら私ちは、死における洗礼によって彼とともに葬られたからです[4]」と。さらに、「もしも私たちがともに死んだのなら、ともに支配することになります[5]」と。このようにして、可知的なバラムに対し、「彼の魂は、義人たちの諸々の魂の間で死ぬ」ということが実現されるでしょう。



[1] Nb.23,10.

[2] Cf.Nb.31,8.

[3] Cf.Rm.11,25.訳者(朱門)は直訳している。

[4] Rm.6,3-4.

[5] 2Tm.2,12.

 

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