15 さらに、父子相伝によってであれ、学識の伝承によってであれ、東方から来て最初にイエスを崇拝したあの魔術師たちが彼の種に由来するように見えることから、「私の種が、義人たちの種になりますように[1]」と言っていることを、あのバラムに関することであると理解することもできます。なぜなら彼らが、バラムが「イスラエルの内に昇るだろう」と預言した星を知っており[2]、イスラエルの内に生まれた王を崇拝しに来たのは明らかに確実なことだからです。しかし(そのことは)、既に私たちが述べた諸々の事柄に従って、あの民にも当てはまります。なぜなら彼らというよりは、彼らの種が義人たちの種――すなわち「諸国の民の中から信じて[3]」、キリストにおいて義とされた人たちの種――のようになるからです。それゆえ、使徒が言っているように、「割礼も包皮も問題ではなく、愛を通して働く信仰が大切なの[4]」は、明らかです。ですから誰も、割礼の古さで思い上がるべきでなく、包皮の新しで誇るべきではありません。むしろ使徒が言うように、「人はそれぞれ、各自の業を吟味すべきです。そうすればその人は、自分自身においてだけ誇りを持つでしょう[5]」。実に預言者も,同様に言っています:「見よ、人間と彼のわざと報いは、主の御前にある[6]」と言われています――私たちの主キリスト・イエスにおいて、「各自の諸々の業に従って一人ひとりに報いる[7]」ためです。キリスト・イエスに、「栄光と力が代々にありますように。アーメン[8]」。



[1] Nb.23,10.

[2] Cf.Nb.24,17.

[3] Cf.Ac.21,25.

[4] Cf.Ga.5,6.

[5] Ga.6,4.

[6] Cf.Is.62,11.

[7] Mt.16,27.

[8] 1P.4,11.

 

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