神的文書は、このように多様で、このように異なる事柄を示していますから、彼の人格を確定的に定めることは、私にはかなり難しいことのように見えます。彼の人格に対しては、以上の多様性が適合するばかりでなく、次のことも適合し得ます:すなわち彼は、自分自身について預言するかのように言っています:「私の魂は、義人たちの諸々の魂の間で死にますように。私の種は、義人たちの種のようになりますように[1]」。主も、預言者ミカを通して、似たような証言を彼についてしています。主は言います:「私の民よ、私はあなたに何をした。私は、あなたをエジプトの地から呼び戻し、隷属の家からあなたを解放した。私はモーセとアロンとミリアムをあなたの前に遣わした。私の民よ、モアブの王バラクがあなたに対して何を考えたか、ベオルの子バラムが彼に何と答えたか思い起こしてみよ――カブルからギルガルに至るまで。そうすれば、主の義が知られるだろう[2]」と。ですから、ベオルの子バラムが(聖文書の)諸書の中に書き述べられたすべてのことをバラク王に答えたのは、「主の義が知られるため」であることを、(聖文書は)それらの言葉を通して示しています。



[1] Nb.23,10.

[2] Mi.6,3-5.

 

次へ