しかしあなたは、バラムの諸々の答えそれ自体から、「神の義」がそれらの内に明らかにされていることを明示することのできる人を誰か見いだせるのかと、考えているのでしょうか。実ところ、もしも神の言葉が「彼の口の中に」置かれたなら[1]、もしも「神の霊が彼の上に臨んだ[2]」なら、そして、神の義が彼の諸々の答えから知られ、明らかにされるなら、彼によって言われたことは、結局のところ、預言的で神的であると信じられなければなりません。「神の霊が預言者たちの誰かの上に臨んだ」ことをどこかに書かれているのを私たちが読むのがどれほど難しくても、「彼が見た幻視」や「神の言葉の受容」、「誰彼に神の言葉が向けられたこと」や、預言者たちに関する他の諸々の事柄を、私たちは読んでいます[3]。とはいえ、神の霊が預言者たちの誰かの上に臨んだ箇所を私が読んだことがあるか、今のところ私は思い出すことができません。ただしダビデについて、次のように書かれているのを覚えています:すなわち、「神の霊がその日以来、ダビデの上に現れた――あるいは輝いた――[4]」と。もちろんこれは、「神の霊がダビデの上に臨んだ」ということではありません。しかしサウルについて、次のように書かれているのを私は覚えています:「そして神の霊があなたの上に降るだろう。そして、あなたは彼らとともに預言するだろう。そしてあなたは、別人に変わるだろう[5]」と。また、同じ彼について次のように言われています:「そして主の霊は、サウルから離れ、主からの邪悪な霊が彼を錯乱させた[6]」。さらに、「悪霊がサウルからいなくなると、ダビデは竪琴を取って、自分の両手で(それを)奏で、弦を弾いた。それは彼に善かった。そして邪悪な霊は、彼から離れた[7]」。以上のこと(を私が述べたの)は、「神の霊が彼の上に臨んだ」と書かれていることが平凡なこととだと考えられるおそれがあるからです。



[1] Cf.Nb.23,5.

[2] Cf.Nb.24,2.

[3] Cf.eg.1S.3,1;15,10.

[4] 1S.16,3. 「輝いた」(illuxit)に相当する読みは、『ヘクサプラ』に収録されたテオドチオン訳に由来する。

[5] 1S.10,6.

[6] 1S.16,10.

[7] 1S.16,23.

 

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