15 次にバラムは言います:「見よ、祝福するために私は採用された。私は祝福する。そしてそれを取り消さない[1]」と。祝福するためにバラムは採用されましたが、バラクによってでなく、神によって。神は、「彼の口の中にご自分の言葉を投げ入れました[2]」――その言葉によって民を祝福するために。そして神は、その祝福を取り消しません。実際、人間の舌は、たとえ望んだとしても、神の言葉を回避することはできません。次に、「ヤコブの内に労苦はなく、イスラエルの内に痛みは見られないだろう[3]」と言っています。それらの言葉の中で彼は、未来の生活の状態を包み隠さず布告しています。実際、この生活を労苦と痛みなしに走り抜ける人は誰でしょうか。その人がペトロであったとしても、あるいはパウロであったとしても、だめでしょう。「三度、諸々の棒でたたかれ、一度、石で打たれ、三度、難破し、一昼夜、海の深みにあり[4]」、彼が、自分の諸々の労苦と痛みについて書いた無数の事柄を堪え忍んだとき、どうして労苦と痛みの内にいないでしょうか。しかし「痛みと悲しみと呻きが逃げ去る[5]」と言われるとき、それらは全うされるでしょう。



[1] Nb.23,20.

[2] Cf.Nb.23,16.

[3] Nb.23,21.

[4] 2Co.11,25.

[5] Cf.Is.35,10.

 

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