19 「ヤコブの内に卜占はなくなるだろう。イスラエルの内に占いもなくなるだろう。時の応じてヤコブとイスラエルに、何を神が成し遂げるか言われるだろう[1]」と。さて、私たちは、何でも個々の事柄をより注意深く分析することにしていますから、卜占や占いが何であるかを私たちが探求しても、馬鹿げたこととは思われないでしょう。なぜなら、無知によってそれらの事柄に誰も陥らないように、それらの事柄について言及するのは()文書に相応しことだからです。さて、未来の諸々の事柄の予知は――予知それ自体に関する限り――或る中間的なものであると[2]私には思えます。すなわちそれは、端的に善いものでもなければ、端的に悪いものではないと思われます。あり時にそれは、悪魔の側から、未来の諸々の事柄の予知が人間たちの認識にやってくることもあり得ます。他方、疑いもなく、時と場合が求めるとき、神の意思があるなら、神によっても、預言者たちを通して、人間たちに予知が与えられます。それで私たちは、時に悪に由来するものは端的に善いものであると言うことはできず、時に神から降るものは端的に悪いものであると言うことはできないと言ったのです。



[1] Nb.23,23.

[2] edium quiddam:ストア派の用語で言えば、「善悪無記」(アディアフォラ)ということである。

 

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