32 次に、「見よ、民がライオンの子のように身を起こし、ライオンのように飛び上がるだろう[1]」と(聖文書は)言っています。それらの言葉の中で、キリストを信じる民の信頼と、民が信仰の内に持つ自由と、民が希望の内に抱く歓喜が描かれているように私には思えます。実際、民は、喜び勇んで完成の域に向かっている限りで、ライオンの子になぞらえらえます。また、完成された諸々の事柄を獲得している限りで[2]、ライオンに対比されます。ライオンとライオンの子がいかなる動物も、いかなる獣も恐れず、それらのすべてを服従させるように、完成されたキリスト者――「自分の十字架を背負い、キリストに従う[3]」者、「世界は私に対して十字架に付けられ、私は世界に対して十字架に付けられました[4]」と言うことのできる者――はすべてのものを服従させ、すべてのものを踏みつけます。実際、彼は、この世界の内にあるすべてのものを蔑み、軽蔑します。そして、「ユダ族から出たライオン[5]」と呼ばれ、「ライオンの子[6]」と言われる方を模倣しています。なぜなら、「世の光[7]」である彼ご自身が、ご自分の弟子たちにも世の光になることをお許しになったのと同じように、彼は、ライオンでありライオンの子でありますから、ご自分を信じる人たちにも、ライオンとライオンの子という名をお授けになります。
[1]
Nb.23,24.
[2]
意訳すれば、「民が完成の域に達した限りで」となろう。
[3]
Mt.16,24.
[4]
Ga.6,14.
[5]
Ap.5,5.
[6]
Nb.23,24.
[7]
Jn.8,12.