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35 ですから彼らは、血を飲むことを日常とする民が誰であるかを私たちに言うべきです。それは、福音の中でも、ユダヤ人たちの中から主についてきた者たちが聞いて躓き、「誰が肉を食べ、血を飲むことができるのか」と言い合った事柄でもありました[1]。しかしキリストの民、信仰の民は、それらの言葉を聞いても、次のように言う方に寄りすがり、従います。彼は言います:「あなた方が私の肉を食べ、私の血を飲まなければ、あなた方は、あなた方自身の内に命を持たないだろう。なぜなら私の肉は、真実に食べ物であり、私の血は真実に飲み物だからである[2]」と。たしかに、それらのことを言った方は、人間たちのために傷付けられました。実に彼は、イザヤが言っているように、「私たちの諸々の罪のために傷付けられました[3]」。しかし、「私たちは、キリストの血を飲むように言われています」が、それは、諸々の秘蹟の祭儀においてばかりでなく、私たちが彼の諸々の言葉を受け入れる際にも、そう言われます。なぜなら、彼の諸々の言葉の内には、彼自身も言うように、命があるからです。彼は言います:「私が語った諸々の言葉は、霊と命である[4]」と。ですから彼は、傷付けられました。そして私たちは、彼の血を飲みます。すなわち私たちは、彼の教えの諸々の言葉を受け入れます。しかしそればかりか、私たちに彼の言葉を宣べ伝える人たちも傷付けられました。実際、彼らの、すなわち彼の使徒たちの諸々の言葉を私たちが読み、それらから命を得るとき、私たちは、傷付けられたものたちの血を飲みます。



[1] Cf.Jn.6,52.

[2] Cf.Jn.6,53-55.

[3] Cf.Is.53,5.

[4] Jn.6,63.

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