事態はこうして、不敬虔な諸々の生け贄によって行われ、神意は魔術によって諮られました。しかし、「罪が溢れるところに恵みがされる溢れる[1]」ことを望む神は、臨在することをよして、イスラエルの戒律に即してでなく、異教徒たちの誤謬に従って行われる諸々の事柄から逃げませんでした。しかし神は、諸々の生け贄に臨在下のでなく、会いに来た人に臨在しました。そして神がご自分のみ言葉を与え、将来の諸々の神秘を告げると、異教徒たちの信仰と感激が最大限に高まり、私たちの預言者たちを信じようとしなかった者たちが、その神的な代弁者たちを信じるようになりました。



[1] Rm.5,20.

 

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