10 ところで、私たちが以上の諸々の事柄を思い起こしましたのは、閉ざされる諸々も目が何であるか、そして、開かれる諸々の目が何であるかが一層はっきりと輝き出すためであり、同時に、預言書の中で「見る者たちよ、あなた方は見るだろう。そしてあなた方は見ないだろう[1]」と書かれていることが以上の諸々の事柄を通して理解されることによって、どのような諸々の目で彼らは見るのか、そしてどのような諸々の目で彼らは見るが、見えないを私たちが知るためです。ですから、あのバラムが、「彼の諸々の目が開かれた[2]」がゆえに、自分自身について「真実に見る人間」であると言い、「力ある方の諸々の言葉を聞く(人間である)[3]」と言ったのは明らかです。実に、ある諸々の目は閉ざされ、他の諸々の目が開かれているのと同じ秩序で[4]、ある諸々の耳は閉ざされるべきであり、他の諸々の耳は開かれるべきだと理解されます。しかしもしも人が、それらの言葉をさらに歴史に即して言われたものとして受け取りたいなら、その人は次のように言うことができます:「イスラエルを祝福することが主のみ前において善いことをバラムは見た[5]」ということの内に、「彼の諸々の目が開かれ」、「彼が真実に見る人間になった」ことが明示されていると。なぜなら彼は、イスラエルやヤコブに関する将来の諸々の真実を見たからです。その人はまた、次のことの内に、彼が「力ある方の諸々の言葉を聞いた」と言うでしょう:すなわち、「私があなたの口の中で与える言葉を、あなたは語るように心がけなさい[6]」ということの内に。そしてそれが、「彼が諸々の夢の中で見た神の幻[7]」でしょう。そして彼は、それらの事柄を通して、「自分の諸々の目が開かれた」と主張するのでしょう――彼は、自分が「見たものを見ることができた[8]」のだからと。以上は、バラムが自分の前置きとして、自分自身について預言していると思われる諸々の事柄に関するものです。



[1] Is.6,9.

[2] Nb.24,4.

[3] Nb.24,3-4.

[4] 妙な日本語だが、訳者(朱門)は愚直に訳している。

[5] Nb.24,1.

[6] Nb.22,35.

[7] Nb.24,4.

[8] Cf.Is.6,9.

 

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