11 さて、私たちは、彼が引き続く諸々の箇所で言っていることが何であるかを見てみましょう。「なんと善いものだろう、ヤコブよ、あなたの諸々の家、イスラエルよ、あなたの諸々の天幕は!うっそうと茂る諸々の森のように、諸々の川に沿う諸々の庭園のように、主が設営した諸々の天幕のように、諸々の水のほとりの諸々の杉のように[1]」と(バラムは)言っています。彼は、ヤコブの諸々の家を善いと言っていますが、彼が彼らの地上の諸々の住居を褒めたたえていると、私は思っていません。なぜなら、他の異邦人たちに優って彼らの許に何かそのような物があるとは言及されていないからです。しかし、もしかすると、民が「諸々の部族ごとに」分けられ、各部族は「諸々の氏族ごとに」、諸々の氏族は「諸々の親族ごとに」、諸々の親族は「諸々の家族の諸々の家ごとに」、さらに諸々の家族の諸々の家――すなわち、「二十歳以上のすべての男子」、「戦いに行くことができるすべての男子」――が「諸々の名前の数ごとに」かつ「諸々の頭ごとに」数えられたのですから[2]、それらの家を、バラムは霊の内に見詰め、誉めた称えたのではないかと、私たちは考えましょう。

 しかし、それらの事柄の中で、文字だけの意味が見詰められるべきではありません。なぜならバラムは、「彼の諸々のたとえ話を受け取って語った[3]」からです。ですから私たちも、言われていることを、諸々のたとえ話の中で聞きましょう[4]。実際、もしもあなたが、「各自は各自の秩序において復活するとき[5]」、真のイスラエルの民の中で、その復活において保持される諸々の分割と諸々の秩序を考えるなら、もしもあなたが、血と肉との親族関係ではなく、精神と魂との親族関係が見出される諸々の部族と諸々の氏族を見詰めることができるなら、そのときあなたは、「ヤコブの諸々の家がどれほど善いものか、イスラエルの諸々の天幕はどれほど善いものか[6]」理解するでしょう。



[1] Nb.24,5-6.

[2] Cf.Nb.1,3,4,20.

[3] Nb.24,3.

[4] Cf.Mt.13,3.

[5] 1Co.15,23.

[6] Nb.24,5.

 

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