15 ですから、それらの諸々の流水に浸されて、イスラエルの諸々の天幕は、「主が設置した[1]」諸々の天幕のようになります。しかし、目下のみ言葉が或る二種類の天幕に言及していることは、注意深い聞き手を動かすかも知れません。実際、(聖文書は)言っています:「ヤコブよ、あなたの諸々の家はなんと善いか、イスラエルよ、あなたの諸々の天幕はなんと善いか。うっそうと茂る諸々の森のように、諸々の川に沿う諸々の庭園のように[2]」と。さらに、諸々の天幕を諸々の天幕と比較して、「主が設置した諸々の天幕のように[3]」と言います。したがって私たちが上で述べた諸々の解説に次いで、別の解説が受け入れられます。すなわち。ヤコブの諸々の家は律法であり、イスラエルの諸々の天幕は諸々の預言であると、私たちは言うことができます。実際、(バラムは)「彼の両目の覆いが取り除かれたとき[4]」賞賛したのは、ヤコブそれ自身ではなく、彼の諸々の家であり、イスラエルそれ自身ではなく、彼の諸々の幕屋でした。実際、律法と諸々の預言の「朗読の上に覆いが置かれている[5]」限り、美しい諸々の幕屋も賞賛に値する諸々の家も見られません。しかし、「覆いが取り去られて[6]」、律法と諸々の預言が「霊的なもの」として理解され始めたとき[7]、ヤコブの諸々の家は美しく驚嘆すべきものになるでしょう。そして、イスラエルの諸々の天幕は賞賛すべきものになるでしょう。なぜならそのとき、「殺す文字」が取り去られて、あなたはそれらから「生かす霊」を獲得し始めるからです。



[1] Cf.Nb.24,6.

[2] Nb.24,5-6.

[3] Nb.24,6.

[4] Nb.24,4.

[5] 2Co.3,14.

[6] 2Co.3,16.

[7] Cf.Rm.7,14.

 

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