18 しかし、私たちのひとり一人も、もしもエジプトから脱出して荒れ野の中に住んでいるなら、天幕の中に住んで、諸々の天幕の中で祭日を祝わなければなりません。実際、エジプトからの脱出の記念が、過越祭と除酵祭とによって行われているように[1]、荒れ野における滞在の記念が諸々天幕によって行われます。なぜなら荒れ野の中にいた私たちの先祖たちも、諸々の天幕の中で生活していたからです。

 しかし、諸々の天幕は何から作られるべきでしょうか――律法と諸々の預言との諸々の言葉と、詩編の諸々の詞と律法の中に含まれるすべての事柄とからでなければ。実際、魂は、書かれている諸々の事柄によって進歩し、常に、「後ろにある諸々の事柄を忘れて、前にある諸々の事柄にみずからを伸ばします[2]」。そして魂は、劣った場所から前進しつつ成長し、より優れた諸々の事柄へと進歩します。それゆえ、諸々の徳の増加と諸々の進歩の継起とから、魂は諸々の天幕の中に住んでいると相応しく言われるのです。しかしあなたは、「神が固定した諸々の天幕[3]」が、救い主が福音の中で次のように言って言及した諸々の天幕でもないのか考えてみてください:「あなた方は、不正の富であなた方のために諸々の友達を作りなさい。そうすれば、あなた方が貧窮したとき、彼らがあなた方を永遠の諸々の天幕の中に受け入れていくれるだろう[4]」と。とにかく諸々の魂は、あたかも「教説のあらゆる風に振り回されることがない[5]」かのように、神によって固定されています。



[1] Cf.nb.26,16,17; Ex.12,11,17.

[2] Ph.3,13.

[3] Nb.24,6:「固定した」と訳した言葉(fixit)は、前節までは「設置した」と訳した。本節でのみ、文脈上、「固定した」と訳す。

[4] Lc.16,9.

[5] Cf.Ep.4,14.

 

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