「そしてバラムはバラクに言った:『あなたは私のために、ここに七つの祭壇を建てなさい。そして私のために、ここに、七頭の子牛と七頭の雄羊を作りなさい。そしてバラクは、バラムが彼に言った通りに作り、仔牛と雄牛を祭壇の上に捧げた』[1]」とあります。使徒の考えは明白です。彼は言います:「諸国の民が捧げる生け贄を、彼らは神にではなく、悪霊たちに捧げるのです[2]」。預言者も同様に言います:「彼らは、神にはなく、悪霊たちに生け贄を捧げた[3]」と。ところが、神の律法も、生け贄について定め、生け贄を捧げる儀式をイスラエルの子らに伝えていますので[4]、なぜそれらの物が、悪霊たちに奉納されているように見るとともに、神にも捧げられねばならないと命令されているのかが、おそらく問われるでしょう。その答えは簡単で、直ぐにできます。私たちは次のことを明示しました:すなわち、「離縁状を与えること」は神の意志ではない。なぜなら神は、「結び合わせたものが分離されることを望まない」からである。むしろモーセがみずから、それらのことを、ユダヤ人たちの「心の頑なさのために」書いたのであると[5]。それと同様に、この箇所についても考えることができます。実際、神は、別の預言者と通してであるかのように、「(神は)子牛たちの諸々の肉を食べない。山羊たちの血を飲まない[6]」と言っています。それは、さらに他の箇所でも、「私はあなたをエジプトの地から導き出した日に、諸々の生け贄と諸々の犠牲についてあなたに命令しなかった[7]」と書かれている通りでもあります。むしろモーセが、エジプトで染まった極悪の習慣に起因する彼らの「心の頑なさのために」、彼らに対してそれらのことを命令したのでしょう――生け贄を慎むことのできなかった彼らが、悪霊たちにでなく、せめて神に生け贄を捧げることができるようにするために。



[1] Nb.23,29-30.

[2] 1Co.10,20.

[3] Dt.32,17.

[4] Cf.Ex.12,1-51.

[5] Cf.Mt.19,6-8; Mc.10,1-12.

[6] Ps.50,13.

[7] Cf.Jr.7,22.

 

次へ