24 次に(バラムは)、受難の経綸それ自体についても言及し、「彼は獅子のように、獅子の子のように横たわて安らった。誰が彼を起き上がらせるだろうか[1]」と言っています。彼は、十字架の中に置かれて、「諸々の支配と諸々の権能を取り去り、十字架の木の中でそれらに勝利した[2]」とき、獅子のように安らいました。しかし彼は、死の眠りから再び起き上がったとき、獅子の子のようでした。彼が獅子になぞらえられるとともに、獅子の子になぞらえられることについては、さらに次のことからも理解することができます。すなわち彼は、完成の域に達した者たちの内では獅子と名づけられますが、初歩の域にあって未熟な者たちの内では、獅子の子と名づけられます。しかし、次のことは、いったい何を言っているのでしょうか:すなわち誰が、彼を起こすのか。なぜなら彼は、ある時は父によって起こされると言われ、ある時には彼自身が、「三日後にご自分の身体の神殿をみずから建ち上げる[3]」と言っているからです。当然この問いの中には、いわば探求する人の熱情が明白に示されています[4]



[1] Nb.24,9.

[2] Col.2,15.

[3] Cf.Jn.2,19-21.

[4] 文脈に従えば、この一文はルフィヌスの加筆ではない。講話の性質上、オリゲネスは詳論を避けているだけである。

 

次へ