26 しかし、私としては、次のように考えます:キリストに対して呪いの言葉を表明するものだけが、キリストを呪うのではなく、キリスト教徒の名の下に悪く振る舞い、破廉恥に暮らし、自分の諸々の不誠実な言葉や行いによって、「彼の名前が諸国の民の人たちの間で冒涜されるようにする[1]」人も、キリストを呪っています。ちょうどその反対に、諸々の言葉によって主を祝福する人だけが祝福されると考えられるべきではありません。自分の諸々の行いと生活と諸々の品行によって、主の名前がすべての人によって祝福されるようにする人も、祝福されます。

 それらの諸々の事柄の内に、バラムの第三の預言[2]が示す事柄がいっそうよく成就されるでしょう。なぜなら、キリストを「祝福する人たちは祝福され、彼を呪う者たちは呪われた者たちになる」からです。それゆえ私たちは、私たちの諸々の業と行いとによってキリストの名前が冒涜されないようにあらゆる仕方で注意しましょう。むしろ私たちは、彼の諸々の祝福に参与する者に相応しくなることを心がけましょう。彼に、「祝福と栄光が代々にありますように[3]」。アーメン。



[1] Rm.2,24.

[2] Nb.24,9.

[3] Cf.Ap.5,12.

 

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