しかし、神に生け贄を捧げることには、もしかすると、もっと深く隠されもっと密かな何らかの理由があるのではないか考察されねばなりません。すなわち、神に捧げられる諸々の生け贄は、悪霊たちのために殺される諸々の生け贄を破壊し、後者の諸々の生け贄によって傷付けられた諸々の魂が前者の諸々の生け贄によって癒されるために行われるのではないでしょうか。医術の技能を行使する人たちは、次のことを確証しているます:すなわち、諸々の蛇の諸々の毒は、やはり諸々の蛇から製造された諸々の薬によって駆逐されると、彼らは断言しています。それと同じように、悪霊的な諸々の生け贄の毒液も、神に捧げられた諸々の生け贄によって駆逐されます――ちょうど「イエスの死が、信じる人たちに罪の死が君臨することを許さない[1]」のと同じように。実に(経綸の)時間が甘受する限りで、諸々の生け贄は諸々の生け贄に対置されていました。しかし完全な生け贄、すなわち、「全世界の罪を取り除く[2]」「汚れない子羊[3]」が来たとき、個別に神に捧げられていた諸々の生け贄は、もはや余計なものと考えられました。なぜなら一つの生け贄によって、悪霊たちのすべての祭儀が駆逐されたからです。

 ところがあのバラムは、改めなかった自分の心の意図に従ってであれ、あるいはその外見――私たちは、その外見において、彼が、疑い深い民の(律法)学者たちやファリサイ派たちを代表していると述べました[4]――によってであれ、諸々の生け贄の儀式を再開し、諸々の生け贄が準備されるように命じました。実にそれらの生け贄の中に、キリストの信仰を受け入れない心を持つ人たちは一切の希望を抱いています。



[1] Cf.Rm.6,9.14.

[2] Cf.Jn.1,29.

[3] 1P.1,19.

[4] 「あるいは、私たちが既に述べたように、彼が、疑い深い民の学者たちやファリサイ派たちを代弁することによってであれ」というのが意訳。

 

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