しかし、何が続いているでしょうか。(聖文書は)言います:「バラムは、イスラエルを祝福することが主のみ前において善いことであると悟り、習慣に従って諸々の占いを伺いに行くことはなく、自分の顔を荒れ野に向けた。そして彼は自分の諸々の目を上げて、イスラエルの諸々の宿営地が諸々の部族ごとに設置されているのを見つめた。そして彼の上に神の霊が臨んだ。そして彼は、自分の受け取った諸々のたとえ話を語った[1]」とあります。

 なぜ、「バラムは、イスラエルを祝福することが主のみ前において善いことであると悟った」のかと、おそらく問われるでしょう。そして、彼が生け贄にした諸々の犠牲から(それを)理解できると考えられるでしょう。すなわち、悪霊たちの誰一人として(生け贄の儀式に)立ち会わないこと、いかなる敵対的な権能も自分たちの諸々の犠牲に敢えて立ち会わないこと、彼が呪うときに利用するのを常としていた邪悪の奉仕者たちがことごとく排除されていたことを、彼は悟ったとき、彼は、それらのことから、「イスラエルを祝福することが神のみ前において善いことである」と理解することができました。



[1] Nb.24,1-3.

 

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