しかし私としては、むしろ次のように理解します:すなわち、今では空しいあの民と、あの学者たち――彼らはキリストを信じず、民を虚栄心の中に閉じ込めた――は、いつか「見る」だろうと理解します。そのいつかとは、「諸々の最後の日に[1]」、「諸国の民の人たちの充満が入ってきて」、「一切のイスラエル」がキリストの信仰に来はじめる時のことです[2]。私は、今は「諸々の目を持ってはいるが、見ない[3]」彼らも、その時には見るだろうと言っています。すなわち彼らは、諸々のより高く霊的な意味に自分たちの諸々の目を上げて、霊的な「イスラエルを祝福することが主のみ前において善いことである[4]」と理解するでしょう。確かに彼らは、霊的な民が部族ごとに、家ごとに、家族ごとに整列されていること[5]、そして「ひとり一人が各自の順序において[6]」復活の栄光を獲得するだろうということを見るでしょう。そして「彼の受け取った諸々のたとえ話[7]」を理解することでしょう。それらの話は、諸々のたとえ話の中に書き記されいて、今のところ彼らは、「彼らの心の上に置かれている覆い[8]」のゆえに、それらを見ませんし、理解しません。

 次に、「彼は、習慣に従って諸々の占いを伺いに行くことはなかった」と(聖文書は)言っています。実に彼は、彼におなじみの習慣によって、愚かで空しい諸々の意味に囚われて、物言わぬ動物たちや家畜たちのから諸々の予兆を集める人たちと同じように、それらの生き物の中に留まることはなく、神の意志を考えるでしょう。そして彼は、次のことを覚知するでしょう:「雄牛たちの配慮が神にある」のではなく、牡羊たちや鳥たちや他の動物たちについての配慮も(神に)ないこと。むしろ、それらのことについて何らかの諸々の事柄が書かれているとすれば、人間たちのためにそれらの事柄が書かれていると、彼は理解するでしょう。



[1] Cf.Ac.2,17.

[2] Cf.Rm.11,25.

[3] Mc.8,18.

[4] Nb.24,1.

[5] Cf.Nb.1,20.

[6] Cf.1Co.15,23.

[7] Nb.24,3.

[8] 2Co.3,15.

 

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