それゆえ、それらの言葉はかつての民にいっそうよく当てはまると、私には思われます。当時、かつての民は「神に立ち返り、その心の上にあった覆いを取り除きました。ところで主は、霊です[1]」。(聖文書が)、「彼の諸々の目は開かれていた[2]」と言っているのはそのためです――あたかも彼の目は、今まで閉じられていたのに、いま「彼の上に臨んだ神の霊[3]」によって覆いが取り去られて開かれたかのように。

 それは、いま、彼が「真実に見、力ある方の諸々の言葉を真実に聞き、神の幻を諸々の夢の中で見る[4]」ときです。すなわち今や彼は、預言者ダニエルの諸々の夢の中で示された諸々の時が成し遂げられるのを見るでしょう[5]。そして、諸々の夢の中で彼にもたらされた諸々の幻を彼は、「開かれた諸々の目」で見ます、すなわち、理解し覚知します。実に彼は、次のように言った人々と同じようになるでしょう:「他方、私たちは皆、覆いを取り除かれた顔で、主の栄光を鏡観します[6]――栄光から栄光へと、いわば主の霊において、同じ像に変容されながら。



[1] Cf.2Co.3,15-17.

[2] Nb.24,4.

[3] Nb.24,2.

[4] Nb.24,3-4.

[5] Cf.Dn.7,1s.

[6] 「鏡のように反射する」と「はっきり見る」の意味を込めて、造語してみた。これは少し無理か。

 

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