しかし私は、「開かれた」と言われている「彼の諸々の目[1]」がどのようなものであるかを探求したいです。おそらくそれらは、()文書の他の諸々の箇所の中で――たとえば、ある諸々の写本の中に私たちが読むように――「地の諸々の目」と呼ばれているもの、そして、パウロが或る人について「自分の肉の考えによって虚しく膨れ上がった人[2]」というとき、「肉の思い」と呼んでいるものではないでしょうか。それらの目について、さらに蛇も、エバに「あなた方がそれから食べたどんな日でも、あなた方の目は開かれるのを主は知っていた[3]」と言ったのではないかと、私は思っています。その少し後で、「彼らは食べた。そして二人の諸々の目は開かれた[4]」と(聖文書は)言っています。実に、諸々の目の違いがないとすれば、共謀によって開かれる諸々の目と、アダムとエバが――それらが開かれる前に――使っていた諸々の目とが別物でないとすれば[5]()文書は、まだ彼らの諸々の目――共謀によって開かれた諸々目が開かれていないときに、次のように言うことは決してないでしょう:「女が見ると、その木は食べるのに善く、見た目にも麗しく、見詰めるのも心地よいと、女は見た。彼女は木から取って食べ、自分と一緒にいた自分の夫にも与えた。そして彼らは食べた。そして二人の目は開かれた[6]」と。実際、「二人の諸々の目」がまだ開かれていないとすれば、一体どのようにして「女は、木が食べるのに善く、見た目にも麗しいと見た」のでしょうか。どのような諸々の目に、「見詰めるにも心地よかった」と言われるでしょうか。



[1] Nb.24,4.

[2] Col.2,18.

[3] Gn.3,5.

[4] Cf.Gn.3,6-7.

[5] Cf.Hom.Ez.II,3:オリゲネスは、ここで「私たちの内には、私たちが身体の中に持っている諸々の目よりもより善い諸々の目が存在します」(云々)と言っている(拙訳参照)

[6] Gn.3,6-7.

 

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