13 それらの後で彼は、「諸々の夢の中で神の幻を見る者、彼の目は覆いを取り除かれている[1]」と言います。それらについては、第三の幻の中で十分に検討されましたので、同じことを繰り返すのは無駄です。

そこで私たちは、続く諸々の箇所で(バラムが)言っていることは何であるかを見てみましょう。こうあります:「私は彼に明示するだろう。しかし今ではない。私は祝福する。しかしそれは近づいていない[2]」。他の諸々の写本の中では、こう読まれます:「私は彼を見るだろう。しかし今ではない」と。もしも、その言葉が採用されるなら、次のことを理解するのはいっそう簡単だと考えられるでしょう:すなわち、キリスト――彼について、(バラムは)続く諸々の言葉の中で、「星がヤコブから昇るだろう。そして、人間がイスラエルから立ち上がるだろう[3]」と言っています――が見られるはずだ、しかし今ではない、すなわち、それらの事柄が語られた時ではないと、バラムは言っているのだということ。実際、諸々の時の充満が訪れる終わりの日々に、神はご自分の息子を遣わしました[4]

 しかし、数ある写本の中から私たちが持っている写本に従って、読まれるべきものは、「私は彼に明示するだろう。しかし今ではない。私は祝福する。しかしそれは近づいていない[5]」という言葉であるとすれば、その言葉は、それを語ったバラムに向けられるのではなく、彼の内に代表されていると私たちが申し上げた人たちに向けられています。すなわち彼らは、律法の博士たちと律法学者たちは、律法と預言者たちの諸々の預言との仲にキリストを示すでしょう。しかし、今ではありません。すなわち彼が来たときではありません。そうではなく、「諸国の民の充満が入ってきて、全イスラエルが救われれ始めるでしょう[6]」。その時、彼らは彼を明示するでしょう。その時、彼らは、いま冒涜している人を祝福するでしょう。しかし、それらの事柄が起こる時は、近づいていません。それは実に、はるか先の代の終わりにおいて待望されるべきものです。ですから彼が、「私は彼に明示するだろう。しかし今ではない」と言ったその彼とは、その時に救われるだろう民のことです。



[1] Nb.24,16.

[2] Nb.24,17.

[3] Nb.24,17.

[4] Cf.Ga.4,4.

[5] Nb.24,17.

[6] Cf.Rm.11,25-26.

 

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