17 「そして、エドムは嗣業地になるだろう。そして彼の敵エサウも嗣業地になるだろう[1]」とあります。エドムは、エサウと同じです[2]。この後者は、歴史(的な意味)に従えば[3]、確かにイスラエルの敵です。しかし、キリストの到来のとき、彼さえもキリストの嗣業地になるだろうと、(聖文書は)言っています。すなわち、彼も、信仰の内に受け入れられて、キリストの嗣業地から排除されることはないでしょう。他方、もしも私たちが霊的に注目すれば、エドムは、霊に対立する肉、霊の敵として理解されます[4]。ですから、キリストの到来のとき、復活の希望によって肉が霊に従わされたとき、肉さえも嗣業地に到達するでしょう。実に、魂ばかりでなく、かつては敵であった肉も、霊への服従によって、未来の嗣業地の共有者になるでしょう。

 「そしてイスラエルは、力において振る舞った[5]」とあります。それはつまり、イスラエルすなわち魂が力強くなり、諸々の力に優美に満たされたとき、エドムあるいはエサウすなわち肉の本性は嗣業地の集いに招かれるだろうということです。実際、魂が諸々の徳に到達せず、怠惰の内に何時までもいるなら、肉も嗣業地に到達しないどころか、魂も身体もゲヘナの内で滅ぼすことのできる方の裁きに到達するでしょう[6]



[1] Nb.24,18.

[2] Cf.Gn.25,30.

[3] 「文字通りの意味に従えば」ということ。

[4] Cf.Ga.5,17.

[5] Nb.24,18.

[6] Cf.Mt.10,28.

 

次へ