19 ここで私たちは、「町」を世界として理解すべきです――諸々の福音の中で、「父の財産を使い果たした[1]」放蕩な息子に関して言われているように。彼は、その地域の町のある盟主の許に行くと、その盟主によって受け入れられ、諸々の豚を飼うために遣わされたと、(聖文書は)言っています[2]。その盟主が所属していたその町は、この世界であると理解されます。したがって、その町から救い出された生存者、すなわち、キリストがこの世界から救い出した人を、彼は滅ぼします。なぜならその人には、「私のために自分の魂を滅ぼす人は、その魂を救ってもらえるだろう[3]」と言われているからです。

ですから、救いをもたらす滅びによって、イエスは、この世界の町から解放した人を滅ぼすでしょう。そして私たちも、そのように、救いに到達し、この世界から解放されたいと望むなら、私たちは、有益で必要な滅びによって私たちの諸々の魂を滅ぼさなければなりません。実際、キリストに即して、自分の諸々の意思を抑制する人、自分の諸々の欲望を絶つ人、自分の放蕩と弛みを正し、いかなる事柄においても自分の意思を決して行わず、神の意思を行う人は、魂を滅ぼします。それらによって、魂を滅ぼすと言われるでしょう。すなわち、彼の以前の生活は滅び、キリストにおいて送られるべき新しい生活を、彼は始めます。次の言葉もこの発言に似ています:「もしも私たちが(彼と)共に死ぬなら、私たちは(彼と)共に生きるでしょう[4]」。また、「しかしもしもあなた方が、この世界の諸々の元素から死んでいるなら、どうしてあなた方は、この世界の中で生きているかのように悪戦苦闘しているのですか[5]」とあります。したがって、それらの言葉の中においても、必然的に次のことが言明されています:キリストと共に死ぬ人は、自分の魂をこの世界の中で滅ぼす;そして、そのようにしてそれを滅ぼした人は疑いもなくそれを見出すでしょう。実に使徒は、「あなた方の生活は、キリスト共に神の内に隠されています[6]」と言っています。神に「栄光が、永遠の代々にありますように。アーメン[7]」。



[1] Lc.15,13.

[2] Cf.Lc.15,15.

[3] Lc.9,24.

[4] 2Tm.2,11.

[5] Col.2,20.

[6] Col.3,3.

[7] Cf.Ga.1,5.

 

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