私たちの許では、ソロモンの諸巻の中に含まて『集会の書』と言われるのが常ですが、ギリシア人の許では『シラの子イエススの知恵』と呼ばれる本の中に、「一切の知恵は神に由来する[1]」と書かれています。もしかすると私たちは、そのことを次のように理解するかもしれません:すなわち、滅ぼされると言われるこの世の知恵も[2]、偽りの知識を推賞するその他の知恵も、神に由来すると。ところが、同じ小著の中の続く諸々の箇所で、「実に、悪意の術知は知恵ではない[3]」と言われています。(ソロモンは)それによって次のことを教えています:偽りの何がしかを主張する一切の術知は、たとえ説得力があり真実そうに見えても、また覆しがたいものであっても、そのような知識は決して知恵の称号で呼ばれるべきではありません。では、「一切の知恵は神に由来する」と(彼が)言っているのは、どういうことなのでしょうか。

 (彼は)次のことを考えていたと私には思われます:すなわち、人間の利益にかなう何らかの技術にとって必要であると見なされたり、何らかの事柄の認識のために必要であると見なされる一切の技能は、神から与えられた知恵だと言われると。実に『ヨブ記』に、「誰が婦人たちに機織りの知恵と刺繍の術知を与えたのか[4]」と書かれています。また、『出エジプト記』の中にも(次のように書かれています):「主は、モーセに語って言われた:『見よ、私は、ユダ族のフルの孫、ウリの子ベツァルエルを名指しで呼び、彼を、知恵と知性と術知の神的な霊で満たした――彼が、一切の業の内に知性を働かせ、銀と金と銅と、嵌め込むための諸々の石を加工し、木工における熟練した諸々の業を行い、私が彼に課したすべての業に従事する職人になるために。さらに、ダン族のアヒサマクの子オホリアブを(私は呼んだ)。そして私は、一切の技能者の心の中に知性を与えた――私があなたに命じたすべての事柄を彼らが行うために』[5]」。



[1] Si.1,1.

[2] Cf.1Co.2,6.

[3] Cf.Si.19,22.

[4] Cf.Jb.38,36.

[5] Cf.Ex.31,1-6; 35,30-35.

 

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