ですからあなたは、それらすべてのことから、金においてであれ銀においてであれ、その他のどのよう物質においてであれ、どのようにして熟練工の知恵が主に由来するかお考えください。また、どのようにして機織りの知恵が主に由来するかお考えください。そして、それらすべてに関して、それらの知識は至高者に由来すると正当に言えることを、あなたは見てください。そして、もしも熟練工の知識が至高者に由来すると言明されるなら、どうして、測量術――これから()文書が検地口授と命名する知識が導き出される――も至高者に由来すると言明されないでしょうか。『ゼカリア書』の中でも、測量縄――み使いはそれによってエルサレムを測った――が語られています[1]。それゆえ、それも至高者の知識であると言われても、馬鹿げたことだと思われないと私は考えます。しかし音楽について、私たちは何を言いましょうか。極めて賢いダビデは、その一切の技能を得ていました[2]。しかも彼は、一切の調和と諸々の旋律の諸々の技能を集めていたため、それらすべて(の技能)によって、悪霊に苦しめられ動顛していた王を竪琴でなだめることができるような諸々の音を見出すことができました[3]。ですから、正しい理解を持つ人なら、それらすべての知識において、一切の知恵が神に由来することを否定しないと、私は考えます。もちろん医術の知識に関しても、(そのことを)疑い得ないと私は思います。実際、いかなる知識も神に由来するなら、健康の知識――その知識の内に、諸々の(薬)草の諸々の効力と諸々の液汁の諸々の性質と諸々の違いが識別される――以外の何が神に由来するでしょうか。



[1] Cf.Za.2,5.

[2] Cf.1S.16,18-19.

[3] Cf.1S.16,23.

 

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