15 ベオルは、バラムの父です[1]。彼は、異端者たちの代表の内に理解することができます。したがってカイン人は、救われた者になることができます――もしも彼が自分の巣を岩の中に置くなら、すなわち、キリストの中に自分の希望を置いて、異端者たちの狡猾さによって彼を取り囲み包囲しなければ。実際、、もしもそうするなら、(彼の巣が)キリストという岩の内に置かれたように見えることは、彼にとって何の役にも立たないでしょう。なぜなら彼は、アッシリア人たちによって、すなわち邪悪な諸力――異端的な誤謬によって圧倒された人たちを捕らえて連れ去り、支配下に置く邪悪な諸霊――によって捕らわれるでしょうから。

もちろん、カイン人について私たちが表明したこの説明に従えば、「そして」という接続詞は、理解を混乱させるように見えます[2]。しかし、次のことが知られねばなりません:すなわち、「そして」という接続詞を頻繁に使うことは、ヘブライ語に普通のことす。その結果、時として、必要ない諸々の事柄の中で、「そして」が多用され、――私たちの言語の中に現れるように――差し挟まれるように見える、ということです。とにかく、そのことは、寛大に受け取られねばなりません。なぜならそれぞれの言語は、他の諸々の言語の許では欠点であるように見える何らかの固有な事柄を持っているからです。ですからここで、「そして」という接続詞は、過剰で余計なものとして考えられねばなりません。



[1] Cf.eg.Nb.22,5.

[2] この「そして」は、前節に引用された『民数記』の訳文に見られる。とにかく、そのようなわけで訳者(朱門)は、「そして」(et)という言葉を愚直に訳して、いちいち訳文の中に残している。

 

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