16 ですから、と私は申し上げます:カイン人――彼は、「所有する人」と解釈されます――は、たとえキリストの教会の中にいるという恩恵を所有し、またそれに値するとしても、ベオルの狡猾さが彼を取り囲み、邪悪でねじ曲がった諸々の教えに逸らし、それによってアッシリア人たちに渡されることのないように、注意すべきです。実際、教会の中で(神を)冒涜する人たちは、「フィゲロとヘルモゲネス[1]」のように、サタンに渡されれます[2]。パウロは、彼らについて次のように言っています:すなわち、「彼らが(神を)冒涜しないように、私は、彼らをサタンに渡しました[3]」と(彼は)言っています。そういうわけですから、異端的な冒涜の中に逸れていった人は、アッシリア人たちに渡されます。なぜならアッシリア人たちは、「導く人たち」と解釈されるからです[4]。それゆえ、彼ら(アッシリア人たち)に渡される彼れは、滅びるために渡されるのではなく、完全に完全に抹殺されるために綿さえるのでもなく、導かれ矯正されるために渡されます。それは、パウロ自身が、「彼らが(神を)冒涜しないようにするために[5]」と言っているとおりです。



[1] 2Tm.1,15.

[2] Cf.1Tm.1,20.

[3] 1Tm.1,20.

[4] 省略

[5] 1Tm.1,20.

 

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