ところが、カデシュという聖性それ自体の内に、「裁きの泉[1]」があります。実際、聖性へと向き変わるすべての人は、常に自分の諸々の目の前に、裁きの泉を持ちます。すなわち彼は、裁きの日を前方に見、浄化された心で、悪人たちの諸々の罰ばかりでなく敬虔な者たちの諸々の至福を視野に入れます。それらのことを行うことによって、アマレク人たちのすべての君を打ち倒し、斬り捨てます。ところが、カデシュの方に、すなわち、聖性と裁きの泉の方に向き変わらず、未来の諸々の事柄の裁きの日を考えない人は、アマレクの君たちに服従させられます。(アマレクは)その民を「なめ尽くし」、食い尽くします。そしてそのような民を神から「逸らせます[2]」。アマレクに関する最初の言及に関しては、それらの事柄が帰されるべきでしょう。



[1] Cf.Gn.14,7.

[2] 前節に述べられた「アマレク」の解釈を参照せよ。

 

次へ