さて、今日朗読された箇所の始めは、諸々の天幕の秩序が、神に購われ「世俗の諸々の雑事に煩わされない[1]」人たちによってどのように打ち立てられるかを、私たちに教えています。それは、こう言っています。「主は、モーセとアロンに仰せになった。イスラエルの子らよ、人は、各自の秩序に従い、各自の諸々の旗印に従い、各自の家族の諸々の家ごとに、諸々の天幕を配置しなければならない。イスラエルの子らは、証の幕屋の周りに、それに面して宿営しなければならない[2]」と。モーセは言っています。「人は、各自の秩序に従い、各自の諸々の旗印に従い、各自の家族の諸々の家ごとに、諸々の天幕の中を進まなければならない」。パウロも、「すべては、礼儀正しく、秩序に従って為されなければなりません[3]」と言っています。あなたには、同じ一つの神の霊が、モーセとパウロの中で語っているようには思えませんか。モーセは、諸々の天幕の中を進むように命じています。パウロは、教会の中ですべてのことが秩序に従って行われるように指示しています。一方に奉仕したモーセは、諸々の天幕の中では秩序が守られなければ成らないと命じています。他方、パウロは、福音の奉仕者として、諸々の行いにおいてばかりでなく、着こなしそれ自体においても、キリスト者は秩序づけられていることを望んでいます。彼は、「同じように婦人たちは、秩序ある着こなしにおいて[4]」と言っています。以上のことから、彼らが諸々の勤めにおいても、着こなしにおいても秩序が保たれることを望むばかりでなく、魂の中にも何らかの秩序があるべきことを理解させようとしており、そのような秩序について、「それぞれの人は、各自の秩序に従って進むべきである」と言われていると、私は思っています。

 



[1] 2Tm.2,4.

[2] Nb.2,1-2.

[3] 1Co.14,40.

[4] Tt.2,3.

 

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