しかし、「各自の諸々の印に従って[1]」とはどういうことであるかを、私たちは考察しましょう。私としては、諸々の印とは、それぞれの特性を表示するものだと思っています。たとえば、私たちは皆、同じ人間です。しかし、容貌それ自体においても背丈においても、姿勢においても着こなしにおいても、各自に固有の或る特徴が存在します。たとえはその特徴によって、パウロはパウロであるとして表示され、ペトロはペトロであってパウロではないとして表示されます[2]。時として各自の印の特性が、(それを)見ていない人たちにも与えられます。たとえば、声や話から、語っている人がどのような人か知られます。各自の特性の印に従って、身体的な映像がなくても、それぞれの人が知られます。同様に、諸々の魂にも、さまざまな印あると私は思っています。ある人の魂の動きはいっそう滑らかで、柔和で、穏やかで、静かで、落ち着いています。他の人(の魂の動き)は、騒がしく、落ち着きがなく、いっそう猛々しく衝動的で、より厚かましいです。ある人(の魂の動き)は、用心深く、慎重で、先を見据え、思慮に富み、機敏です。他の人(の魂の動き)は、鈍感で、締まりがなく、怠惰で、軽率です。さらに、それら(の動き)にも、多少の違いがあります。私は敢えて次のように言明したいと思います。おそらく、人々の容姿に内在するのと同じだけの違いが、諸々の魂の中にも見出されると。似たようなことを、賢明極まりないソロモンも、ある箇所で言っているのを私は思い出します。こうあります。「諸々の顔が互いに違うように、人々の心も違う[3]」と。しかしながら、モーセが言っているように、各人は、「各自の諸々の印に従って進まなければなりません[4]」。すなわち、低級で見下げ果てた諸々の印の下にある人は、自分の魂の諸々の印が求める以上に高級で高尚な進み方をすべきではありません。



[1] Cf.Nb.2,2.

[2] Cf.De Or.2:「名前は、名指されたものの固有の特性を表示する総称です。たとえば、使徒パウロに固有の性質――魂の状態を表示する性質、理解力を表示する精神の性質、身体の状態を表示する身体の性質――が存在します。それらの性質の固有で共約不可能な特徴が、パウロという名前によって示されます」。

[3] Pr.27,19.

[4] Cf.Nb.2,2.

 

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