しかし、諸々の善き業の熱望によって、私たちが、諸々のより劣った印から、より優れた、より荘厳な諸々の印へ向かう場合があり得ます。律法に書かれているすべての事柄が、「来るべき諸々の善きことの予型[1]」、私たちが復活のときに期待する(来るべき)代の予型であると、私たちによって正しく理解されるなら、次のことは確実でしょう。すなわち、現生において私たちが諸々のより善き事柄への熱意を持ち、使徒の例に従って「後にある諸々の事柄を忘れ、前にある諸々の事柄に身を伸ばす[2]」なら――この死者たちの復活のとき、「星が栄光において(他の)星と違うのと同じように、各人の諸々の功績も異なるでしょう[3]」――、私たちは、より劣った諸々の印から、より優れた一層輝かしい諸々の印へと移され、より輝かしい星々と比肩し得るものにされるでしょう。人間の本性というものは、すでに現生において、死者たちの復活のときに諸々の星の栄光ばかりでなく、太陽の輝きにも比肩し得るほどに進歩します。それは、次のように書かれているとおりです。「義人たちは、神の国において、太陽のように輝くだろう[4]」と。このようなわけで、モーセはさらに下の個所でも、「各人は、各自の諸々の家族の家ごとに、各自の諸々の印に従って[5]」と言っています。



[1] 1Co.9,27.

[2] Ph.3,13.

[3] 1Co.15,41.

[4] Mt.13,43.

[5] Nb.2,2.

 

次へ