11 一般的な姦淫について、以上の事柄が私たちによって言われました。しかし姦淫は、非常に多くの種類を持っています。それらの一つが、身体的な不道徳の故に習慣的に姦淫と名づけられています。しかし、使徒(の書)を読む私としては、彼が「みずからを主に結び付ける者は、一つの霊の霊である[1]」と言い、「みずからを娼婦に結び付ける者は、一つの身体である[2]」と言っている箇所に私が至ると、人が主に結び付けられることと、娼婦に結び付けられることとの他に、何か別の中間的なことがあるのではないかと、探求したくなります。そして、私の諸々の力に応じて吟味してみると、私は、それらの言葉の中に、使徒がこのように、すべての魂は主ないしは娼婦に結合されていると明言する使徒の言葉の中に、かなり深淵で隠された理解を見抜きました。そして私は、次のように理解しました:すなわち彼は、キリストである諸々の力を、すなわち、言葉、知恵、真理、正義[3]、その他この種のものを主であると言ったのであり、その反対に邪悪のすべての主を娼婦であると言ったのです。さらにソロモンの許でも、次の言葉の内にそのことが言われていると私は理解します。彼は娼婦について言っています:「私は、諸々の窓を通して諸々の通りの中を見る。そして(彼女は)、愚かな若者たちの内でも諸々の理解に欠けた者が彼女の家の諸々の角を通過し、夕暮れの諸々の闇の中で話をする見るなら、夜の沈黙や夜の闇がくると、夫人が彼に現れる。彼女は、若者たちの心を舞い上がらせる娼婦の容姿を持っている[4]」と。「娼婦」と言われるこの夫人は、邪悪そのものであり、この娼婦にみずからを結合させた人は、邪悪と「一つの身体」になります。ですから、「みずからを結び付ける人」は、みずからを主に結び付け、みずからを正義に結び付け、みずからを敬神と真理に結び付け、それらすべてと共に「一つの霊」になります。それと同じように、みずからをこの娼婦に結び付け、みずからをこの破廉恥、不信心、不正、欺瞞に、そして、諸々の罪のすべての悪に結び付ける者は、それらと共に「一つの身体」になります。



[1] 1Co.6,17.

[2] 1Co.6,16.

[3] Cf.Jn.1,1; 1Co.1,30; Jn.14,6.

[4] Pr.7,6-10.

 

次へ