12 けれども「イスラエルは、シティムに辿り着きました[1]」。「ヘブライ語の諸々の名称の解釈[2]」の中に、私たちは、シティムが私たちの言葉で、応答ないしは反駁として言われているのを見出します。ですからイスラエルは、応答ないしは反駁に辿り着きました。イスラエルは首尾よく辿り着きませんでした。あなたは、この場所の滞在の中で何が起こったかご覧ください。イスラエルは、ミディアン人たちの婦人たちと姦淫し、神によって反駁されました。なぜならイスラエルは、姦淫したばかりでなく、異邦人たちの諸々の偶像に献身し、諸々の偶像に献げられた諸々の生け贄の中から食べたからである[3]。もちろんそれらは、神の許で忌まわしいものです。実際、「神の神殿に、諸々の偶像とのどのような合意があるでしょうか[4]」。

本当に私は、使徒パウロがコリントの人たちに宛てて書いて、次のように言っている諸々の事柄に大いに驚かされます:すなわち、「もしも誰かが、知識を持っているあなたが偶像の神殿の中で食事の席に着いているのを見るなら、その人の良心は、弱いので、(偶像に献げられた)諸々の生け贄を食べることへと強められないだろうか[5]」とあります。なぜなら、似たような知識によって守られていないにもかかわらず、それらのことを見て、似たような例へと駆り立てられる人の被害ほどひどい事態はないということを、彼は言明しているように見えるからです。このようにして彼は、「知識を持ちつつ、偶像の神殿の中で食事の席に着く[6]」人は、自分自身の損害ではなく、他人の損害の被告人になります。



[1] Nb.25,1.

[2] 省略

[3] Cf.Nb.25,2.

[4] 2Co.6,16.

[5] 1Co.8,10.

[6] 1Co.8,10.

 

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