盗用厳禁

13 しかしあなたは、「彼らが偶像の神殿の中で食事の席に着き、諸々の偶像に献げられた諸々の生け贄を食べる[1]」ことは、コリントの人たちの許だけで起こったのかお考えください。なぜなら、ギリシアの諸々の文献に熱中して、哲学の愛好者となり、さらには、諸々の古典の研究の欲望によって捕らわれて哲学者たちの諸々の教説を、いわば「諸々の偶像に献げられた諸々の生け贄[2]」のように食べた人たちがいたかもしれないからです。しかし、それら(の教説)は、おろらく、真理の十全な知識を受け取った人たちを害することはできなかったでしょう。ところが、キリストにおける知識を(彼らほど)持っていない人たちは、もしも彼らをまねてそれら(の教説)を読み、さらにはそれらの諸研究に打ち込むなら、傷付けられ、様々な教説の多様な誤謬に巻き込まれ得たでしょう。ですからそのように、真理の十全な知識持っていた人が害を受け得なかったのに、他人が害を受けることがありました。しかし愛は、自分に有利なことでなく、多くの人たちに有利なことを求めますから、私たちを強め満足させるばかりでなく、(私たちを)見る人たちを害したり損なったりしないような言葉の食物を取るように注意しなければなりません。ですから、諸々の食物においてばかりでなく、諸々の言葉の内にも、「諸々の偶像に献げられた生け贄[3]」があります。そして私は次のように考えています:すなわち、敬神と正義と真理を教える一切の言葉は、神に献げられたものであり神への生け贄ですが、淫乱や不義や不信心に関わる一切の言葉は、「諸々の偶像に献げられた生け贄[4]」であり、それを受け取る人は「諸々の偶像に献げられた諸々の生け贄を食べる[5]」かのようです。

盗用厳禁


[1] 1Co.8,10.

[2] 1Co.8,10.

[3] 1Co.8,10.

[4] 1Co.8,10.

[5] 1Co.8,10.

 

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