17 注意深い聞き手の人なら誰でも、おそらくそれらのことを聞いて、「それなら、私たちは何をしましょうか」と言うかもしれません。もしも邪悪の霊たちが歩き回り、私たちのひとり一人を罪へと導き引き寄せるなら、そして他方で、義へと引き寄せ、貞潔へと、敬神へと招き導く人が他に誰もいなければ、滅びに至る道が広く開かれいて、救いに至る通路がどこにも与えられていないのが、どうして見られないでしょうか。そうならないように、とにかくあなたはもっと注意して、もしもあなたができるなら、心の目を開くことによって、私と一緒に、より内的な諸々の神秘を考察すべきです。そうすればあなたは、欺くための機会が提供されるよりも、私たちの救いのためにどれほど大きな配慮が諸々の秘密の内にもたらされているかを見るでしょう。私たちのひとり一人には、神の教会の中にいる「もっとも小さい人たち[1]」にさえ、善いみ使い、主のみ使いが寄り添っています。そのみ使いは、指導し、忠告し、舵取りし、私たちの諸々の行いを矯正し、諸々の憐れみを哀願するために、主が諸々の福音の中で示しているように、毎日、「諸々の天の中にいる父の顔を見ています[2]」。また、ヨハネが『黙示』の中で書いている諸々の事柄に従えば、一般に一つひとつの教会には、み使いが寄り添っています[3]。彼は、民の善き行いに応じて誉められ、民の諸々の過失に応じて責められます[4]



[1] Mt.18,10.

[2] Mt.18,10.

[3] Cf.Ap.1,20.

[4] 省略

 

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