21 「そして主は、イスラエルに対して憤激によって怒った。そして主は、モーセに言った:『あなた方は、民の頭たちを捕まえて、彼らを主のために太陽の前にさらしなさい。そうすれば主の憤激の怒りは、イスラエルから逸れるだろう』[1]」とあります。

それらの事柄を私たちが論じることによって、ある人たちを不快にさせるかどうか、私は知りません。しかし、もしも私たちが(ある人たちを)不快にさせるなら、「人間たちの歓心に従い仕えるよりも、主の言葉に従い仕えるべきです[2]」。イスラエルは罪を犯しました。「主はモーセに、すべての頭を捕まえ、彼らを主のために太陽の前にさらしなさい、と言いました[3]」。民は罪を犯します。そして、「君たちが太陽の前にさらされます」。すなわち彼らは、吟味されるために引き出され、光によって非難されます。

あなたは、「民の君たち」の状態がどのようなものであるかを見ます:すなわち彼らは、自分たち自身の諸々の過失のゆえに非難さえるだけでなく、民の諸々の罪のゆえに、その弁明をするように強制されます――民が間違えたのは自分たちの罪ではないのか;おそらく彼らが教えなかったからではないのか;おそらく彼らが忠告しなかったからではないのか、(罪の)感染が多くの人たちの中に広まらないようにするために、罪の端緒を与える人たちを非難するように腐心しなかったのではないか、と。実際、それらすべてのことを行うことが、君たちと学者たちに求められています。もしも彼らがそれらのことを行わず、民衆のために腐心しなかったために、民が罪を犯したとすれば、彼らがさらし者にされ、裁判に引き出されます。実際モーセは、すなわち、神の律法は、彼らを、怠惰な怠け者として非難しています。そして、神の忿怒は彼らの中に向かい、「民からなくなるでしょう[4]」。もしも人間たちがそれらのことを考えるなら、彼らは決して民の指導職を望まないでしょうし、(そのための)野心も抱かないでしょう。私としては、私自身の諸々の過失のために非難されるだけで十分です。私としては、私自身と私の諸々の罪のために弁明することだけで十分です。どうして私は、さらに民の諸々の過失のゆえに、さらし者にされ、太陽の前にさらされる必要があるでしょうか。太陽の前では何ものもの隠され得ず、曖昧にされ得ません[5]



[1] Nb.25,4.

[2] Ac.5,29.

[3] Nb.25,4.

[4] Nb.25,4.

[5] オリゲネスは、やむを得ず司祭になったとはいえ、彼の徹底した謙虚さのゆえに、司教になることは固辞したと言えよう。

 

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