22 しかしおそらく、この箇所の中には、この普通の解説では持つことができないような事柄をさらに教える何かもっと神秘で隠された意味があるかもしれません。実際この箇所も、私たちが先ほど少し話題にした「民の頭たち」に関連づけられるかもしれません。すなわちみ使いたちも、私たちのと共に裁きの許に来て、「義の太陽の前で[1]」私たちのために立つでしょう――私たちが間違いを犯したことの原因の幾らかは彼らにも由来するのではないか、私たちを諸々の罪による転落から呼び戻すために、私たちに費やした業と労苦が少なかったのではないかと。実際、私たちのせいで責められるように見える何らかの事柄が彼らの内にもないとすれば、()文書の言葉が、あれこれの境界のみ使いに次のように言うことは決してなかったでしょう:たとえば、「あなたは、バラムの教えを保持する或る人たちを持っている[2]」とか、「あなたは、あなたの原初の愛[3]」や、あなたの忍耐や、既に私たちが上で言及したその種の他の諸々の事柄を捨てたとあります。それらの事柄のゆえに、『黙示』の中で、個々の教会のみ使いたちは責められます。

実際もしもみ使いが――たとえば、神から託された私を受け取ったみ使いが――私が善く行った諸々の事柄に応じて報酬を期待するなら、私によって善く行われなかった諸々の事柄に応じて責められることも期待するのは明らかです。ですから彼らは「太陽の前にさらされる[4]」と言われます。疑いもなくそれは、諸々の罪――つまり、私が犯す罪の性質に応じて、「ペオルのバアル」であれ他の何であれ、偶像に奉献することになる諸々の罪――が私の不従順によって犯されたのか、それとも彼の怠慢によって犯されたのかが明らかになるためです。しかし、もしも私の「頭[5]」が――私は、私の担当になったみ使いのことを言っています――に落ち度がなく、諸々の善きことについて忠告し、私の心の中で――ともかくその心の中で良心は、私を罪から呼び戻しました――語ったなら、それに対してこの私が、彼の忠告を侮り、良心の制止をないがしろにすることによって諸々の罪の中にまっしぐらに突進したなら、私にとって罰は二倍にされるでしょう――忠告の軽蔑のゆえに、そして犯された事柄の罪のゆえに。



[1] Ml.3,20.

[2] Ap.2,14.

[3] Ap.2,4.

[4] Nb.25,4.

[5] Nb.25,4.

 

次へ