確かにそれらの事柄の内には、或る諸々の神秘的な事柄と、内的な理解の諸々の秘密が存在します。しかし、歴史のテキストそれ自身が、先ず私たちを建徳しなければなりません。そして、そのテキストから私たちは、姦淫が私たちに対して軍事活動をし、私たちに対して淫乱の諸々の矢を放っていることを学ぶべきです。しかし、使徒が私たちに装備するように命じている諸々の武具が私たちに欠けていなければ、その種の諸々の飛矢は、私たちを貫くことはできないでしょう――もしも私たちに「正義の胸当て」があれば、もしも私たちが「救いをもたらす兜と霊の剣」を、そして何よりも「信仰の楯」を持ち、「平和の福音の準備の内に両足に履き物を着ける[1]」なら。それらが、この種の諸々の戦いにおいて私たちを守る諸々の武具です。しかし、もしも私たちがそのような諸々の武具を投げ出すなら、私たちは直ちに悪魔的な打撃に機会を与え、悪霊たちの一切の群団は私たちを捕らえて連れ去ります。そして、それ故に、神の怒りが私たちの上で起こり、「現在の代において」ばかりでなく、「将来(の代)において」も罰せられるでしょう[2]。ですから、悪霊が私たちに対して引き起こすそれらの諸々の戦闘において私たちを勝利させるものは、貞潔と正義と思慮と敬神とその他の諸々の徳です。それに対して、私たちを敗北させるものは、放蕩と欲望、貪欲と不信仰と一切の悪徳です。以上の諸々の事柄が、歴史のテキストが私たちに教えてくれたものです。



[1] Cf.Ep.6,14-17.

[2] Cf.Mt.12,32.

 

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