しかしヨハネは、その『黙示』において、律法の中で歴史に即して書き記された諸々の事柄を諸々の神的な神秘へと導き、それらの内に或る諸々の秘蹟が含まれていることを教えています。そこで私たちも、彼が考えたことに即して、彼によって与えられた説明の規則に従う必要があると思われます。そして先ず、彼が或る教会のみ使いに宛てて書いて次のように言っている諸々の事柄を思い起こす必要があると思われます:すなわち、「あなたは、そこに、バラムの教えを保持する或る人たちを持っている。バラムはバラクに、イスラエルの子らの前に躓きを置いて、彼らが諸々の偶像に献げられた諸々の生け贄を食べ、姦淫するように教えた[1]」とあります。したがって、使徒ヨハネの時代には、彼が宛てて手紙を書いた教会の中に、「バラムの教えを教える或る人たち」がいました。あなたはそのように、バラムが教えた諸々の事柄をみずから教えると主張し、彼の諸々の教説と諸々の伝承の博士であると公言する人たちがそれらの日々にいたと、受け取るべきではないとお考えですか。それとも私たちは、バラムが行った業を誰かが行うとすれば、その人が、「バラムの教え」を教えていると見なされることに注目すべきでしょうか。同じ『黙示』の中でイゼベルの教えについて言及されているように[2]、人は、イゼベルの諸々の教え(を学ぶこと)によって、彼女が伝えた諸々の事柄を人に教えるのではなく、もしも誰かが人々を――たとえば彼女が行ったように神の預言者たち迫害し、あるいは、人々を欺いて諸々の偶像に向かわせたり、諸々の偽りの欺きによって無垢な人たちを滅ぼすなら、その人は、イゼベルの「教えを保持している」と言われます。それと同じように、もしも誰かが、諸々の悪い勧告によって、神の民に諸々の躓きを生み出し、諸々の偶像の諸々の生け贄に関与したり、諸々の淫行と欲望に仕えることによって、民衆に対する神的な憤慨と天的な忿怒を引き起こすなら、その人は、「バラムの教えを保持している」と言われるべきです。したがって身体の姦淫も、忌み嫌われるべきものです。実際、「神の神殿[3]」を侵害することや、「キリストの手足を取って、娼婦たちの手足を作ること[4]」よりも忌み嫌われるべきものが何かあるでしょうか。



[1] Ap.2,14.

[2] Cf.Ap.2,20.

[3] Cf.Co.3,16.

[4] Co.6,15.

 

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