しかしあなたは、それらの事柄が単なる歴史の文書の中に含まれていると考えてほしくないと、私は思います。実に諸々の神秘的な事柄が、律法の似姿を通して書き記されています。すなわち、「割礼の内に」いる最初の民が退けられます。そして、「異邦人たちの中から」集められる第二の民が案内されます。この第二の民こと、父祖の土地を受け取ります。誰から受け取るのでしょうか。モーセからではありません。イエスからです。実際モーセは、たとえ何らかの人たちに嗣業地を与えたとしても、ヨルダンの内側で与えたのではありませんし、彼はヨルダン川を決して過ぎ越していません。彼は、ヨルダン川の外側で土地を与えました。しかしそれは、「乳と蜜が流れる[1]」土地ではありません。それは、家畜たちに適した土地で、理性的な人間たちを養うよりも、物言わぬ生き物たちと非理性的な家畜たちを養うのによい土地でした。他方、私のイエスが第二の民に与える土地は、「乳と蜜が流れる[2]」土地です、いやむしろ、あらゆる土地にも優る蜜の房です。実のところモーセは、嗣業地を取り分として与えたのでもなく、くじ引きによって分配したのでもありません。また彼は、「諸々の平民と諸々の家と諸々の家族と諸々の名前ごとに[3]」、ひとり一人の諸々の功績を神的なくじ引きによって考量することができません。それをするのは、イエスだけです[4]。なぜなら「御父は、彼に一切の判断を委ねた[5]」からです。彼こそ、どのようにすればご自分の民を、「諸々の部族と諸々の家族と諸々の家ごとに」ばかりでなく、ひとり一人の「諸々の名前ごとに」、相応しく十分な居住地に配分できるかを知っています。



[1] Jos.5,6.

[2] Jos.5,6.

[3] Cf.Nb.1,17-20.

[4] 省略

[5] Cf.Jn.5,22.

 

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