しかし彼らの中には、くじ引きの境遇を完全に凌駕していて、くじ引きに招かれない人たちがいます。すべてのレビ人たち、すなわち、熱心に弛まず神の奉仕職に留まりつづけ、神の奉仕の内に不眠の監視を行う人たちは皆、他の人たちの間でくじ(による取り分)を受け取りませんし、そもそもの彼らの取り分は、地の中にはありません。むしろ、主ご自身が彼らにとって取り分であり嗣業地であると述べられています[1]。彼らによって、いかなる物体的な本性の諸々の妨げによっても鈍らされず、すべての可視的な事柄の栄光を踏み越えて、ひたすら神の知恵と神のみ言葉の中にだけ生き甲斐と生き方を置き、いかなる物体的な物も、理性とは異質のいかなるものも求めない人たちが示されているように私には見えます。実際、彼らは知恵を渇望しました。彼らは、神の諸々の秘密の認識を求めました。そして、「彼らの心のあるところに、彼らの宝もあります[2]」。ですから彼らは、諸々の土地の中に嗣業地を持っていません。彼らは、天の崇高な諸々の頂を踏み越えて、常に主の内に、常に彼のみ言葉の内に、常に知恵の内に、そして常に彼の覚知の悦びの内に歓喜するでしょう。彼らにとって、それが食べ物となり、それが飲み物となり、あの諸々の富となり、それこそみ国となるでしょう。彼らは、そのような人たちになるでしょう。そして彼らは、「主ご自身が彼らにとって嗣業地になるだろう[3]」と言われる人たちの中にいるでしょう。



[1] 省略

[2] Cf.Mt.6,21:省略

[3] Cf.Nb.18,20.

 

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