しかし、「より多くの人たちのために嗣業地が増やされねばならない[1]」と述べている(聖文書の)この言葉は、さらに別の仕方でも理解されるでしょう。すなわち、一人の義人は、「神に受け入れられた[2]」限りで、より多くの人たちを表すと見なされます。また、「一人の知恵者が町に居住するだろう。しかし、不正な者たちの諸々の部族は打ち捨てられるだろう[3]」とも書かれています。実に、一人の義人は世界全体を表す考えられます。しかし不正な人たちは、たとえ多人数でも、神の許では少数であり、亡き者と見なされるのです。

ですから、賞賛すべき多人数もあります。それは、私たちがアブラハムに言われているのを見るとおりです:すなわち、「(主は)彼を外に導き出して、『あなたは、諸々の星を数えることができるなら、天を見なさい。あなたの種は、そのようになるだろう』と彼に言った[4]」とあります。この箇所においてあなたは、次のことも考慮にしてください:すなわち、どのような意味でな義人は(家の)内部にいて、諸々の内的な事柄の中に立っているのかを。なぜなら義人は(家の)内部にいて、「隠されたことの中で父に祈る[5]」からであり、「王様の娘――すなわち王的な魂――は、(家の)内部にいる[6]」からです。けれども神は、「彼を(家の)外に導き出します」――事情が(それを)求め、諸々の可視的な事柄の理拠が(それを)要求するとき。ですから、実にそのようにして、「天の諸々の星のように[7]」多人数の内にいるあの多くの人たちのために、嗣業地は増やされます。そして、あの少数の人たち、すなわち、たとえ数において多くても、その生活の卑劣さと低劣さとによって少人数であると見なされる人たちに対しては、僅かな嗣業地が置かれるのでしょう。



[1] Cf.Nb.26,54.

[2] Ac.10,35.

[3] Si.16,4.

[4] Gn.15,5.

[5] Mt.6,6.

[6] Cf.Ps.44,14.

[7] He.11,12.

 

次へ